台所と暮らし

子供時代住んでいた家は台所が中心だった。父(大工の棟梁)の仕事を覚えたいと高校卒業後に住み込みで働く(お兄ちゃん達)食を共にする家だった。家族の一員として住み込みで働く(お兄ちゃん達)の食事作りと生活管理が母の仕事で、その仕事を軽減するために台所は皆で手伝いが出来るように家の中心になっていた。古来の家長中心で、外観や客間が家の格付けを決める家から、家族が集まるリビングダイニングと個人の部屋の充実に変ってきた時代背景もあったと思う。母の考え方や行動は父とは違っていたので、夫婦喧嘩は日常茶飯事。けれど父が母を認めていることは百も承知の父の言葉。【自分に出来ないことをしてくれている。】

四十五年前に故郷を離れて嫁いだ家も、台所が中心だった材木を扱う小さな商家、人の出入りも商家の割に多くはなく静かで落ち着いた家だった。旅行・山好きで歴史好き、建築好きなメモ魔の義父はいつも机に向かっていた。地図を広げて旅行の計画をしたり、本を読んだり、書きもの(メモ)をしていた。

リバー(河川)サイドに立つ家。一番眺め良い場所が台所だった。流しやガス台を組み込んだキッチン家具は職人に特注。真っ赤なデコラ(丈夫で熱に強いメラミン化粧板)張り。窓から見える風景が自然色で緑と青のグラデーション色。山と川と木々の色。キッチンの赤は映えた。現在のキッチンメーカーのシステムを見るたび義父は先見の明だった。

現在住んでいる家は十六年前に建築士の夫と主婦私が、義母の意見を聞きながら設計した家。その時、義母と私たち夫婦と大学に通う息子と娘二人。五人だった。

息子が結婚して同居をし始めて十年。息子夫婦に二人の娘。二人も成長して、下の子が今年小学校に入学する。それぞれに子供部屋をとの話が持ち上がり、二階のリフォーム話が持ち上がる。一月に家族で話し合った。私の言い分も聞いてもらい、おおよその形が決まった。

二階のリフォームのための動き始めは片付け。一階の自分のものを片付けながら、一階の台所はリフォームするわけではないけれど私の中心に据置きたい。私は台所と暮らしについて考えワクワクしている。片付けていた本類の中に・・・私が5才の時に作られた詩が掲載されていた。思わずノートに記す。

   台所は暮らしの工場です

   台所は暮らしの心臓です

   そこで 暮らしをうごかす力が作られ

   そこから 家中みんなにゆきわたり

   そして また そこへかえっていきます

   このちいさな場所に日があたり 

   このちいさな場所に歌がひびき

   このちいさな場所に微笑みがある 

   暮らしは さわやかに回転してゆき

   明るい明日が 明るい今日につづきます 

(1963年 暮らしの手帳 ステンレス流しの研究より)